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第3話 離婚届

last update Data de publicação: 2026-10-02 21:29:51

第3話 離婚届

 翌朝、澪が目を覚ました時、窓の外には薄い朝日が差し込み始めていた。

 ほとんど眠れなかったはずなのに、不思議と頭は冴えていた。長い夜の間に何度も考え直し、何度も迷い、それでも最後には同じ結論へ戻ってきたからかもしれない。

 隣の寝室は静かだった。

 正確には、二人は結婚してしばらく経ってから寝室を分けている。蓮司の帰宅時間が不規則で、澪を起こさないためというのが始まりだった。最初は「仕事が落ち着いたら戻そう」と言っていたが、いつの間にかそのままになった。

 澪はベッドから降りると、昨夜脱いだドレスを見た。

 銀白色の布地は、椅子の背に静かに掛けてある。

 三周年のために作った一着だった。

 蓮司に褒めてもらえたら嬉しいと思っていた。

 けれど、結局彼は一度もドレスについて何も言わなかった。

「それも、もういいか」

 口にした自分の声は、思っていたより穏やかだった。

 澪はシャワーを浴び、簡単に髪を整えると、白いブラウスと黒のパンツに着替えた。結婚前から持っている服で、御堂家の人間から見ればずいぶん地味に映るだろう。

 けれど今は、このくらいでちょうどいい。

 鏡の前で立ち止まり、左手を見る。

 薬指は空いている。

 そこに指輪がないだけで、知らない人の手のように見えた。

 昨夜外した指輪は、小さなケースに収めてある。

 澪はそれを旅行鞄の中へ入れかけ、やめた。

 持っていくべきではない。

 これは自分のものではない。

 三年前、御堂家の嫁として与えられたものだ。

 澪はケースを持ったまま、リビングへ向かった。

 まだ家政婦たちが来る前の時間で、家の中は驚くほど静かだった。

 普段ならこの時間、澪はキッチンに立っている。

 蓮司の朝食を作り、コーヒー豆を挽き、新聞をテーブルへ置く。出勤時間に合わせてシャツやネクタイを確認し、天気が悪ければ傘を玄関へ出しておく。

 誰かに命じられたわけではない。

 自分がしたかったからしてきた。

 それを今さら「尽くしてきた」と数えるつもりはなかったが、今日初めて何もしない朝を迎えると、自分の日常のほとんどが蓮司を中心に回っていたことがよく分かった。

 澪はダイニングテーブルへ離婚届を置いた。

 自分の署名は昨夜すでに済ませてある。

 その横に、結婚指輪。

 さらに、御堂家から渡されていたクレジットカードと家族用カード、家の鍵、使用していた車のキーも並べた。

 最後に短い便箋を一枚置く。

 文章は何度も書き直した。

 恨み言を書くのは違うと思った。

 だから、結局残したのは数行だけだった。

 ――三年間、ありがとうございました。

 ――あなたの妻でいられて、私は幸せでした。

 ――これ以上、お互いが嫌いになる前に終わらせたいと思います。

 ――離婚については、今後弁護士を通してください。

 そこまで書いた後で、澪は一度ペンを止めた。

 本当は、もっと書きたいことがあった。

 昨日の質問に答えてほしかったこと。

 寂しかったこと。

 それでも愛していたこと。

 朝、彼が「おはよう」と言うだけで嬉しかったこと。

 仕事で疲れて帰ってきた蓮司が、澪の作ったスープを黙って全部飲み干した夜が好きだったこと。

 海外出張の前、必ず「留守を頼む」と言われるのが密かに嬉しかったこと。

 けれど、書けば書くほど戻りたくなる。

 澪は便箋を折った。

 このくらいでいい。

 終わらせるための手紙に、思い出を詰め込みすぎてはいけない。

 その時、廊下から足音がした。

 澪は反射的に顔を上げた。

 蓮司だった。

 昨夜そのまま書斎で眠ったのか、シャツには皺があり、ネクタイもしていない。髪も普段ほど整っておらず、珍しく隙のある姿だった。

「早いな」

「おはようございます」

「おはよう」

 蓮司はダイニングへ入りながら、テーブルを見た。

 離婚届は伏せてある。

 そのため、まだ何が置かれているのか分かっていない。

「コーヒーは?」

 いつものように聞かれた。

 澪は一瞬、返事に迷った。

「今日はありません」

 蓮司が足を止める。

「豆が切れたのか?」

「いいえ」

「では?」

 澪は答えなかった。

 その代わり、夫の顔をしっかり見た。

 この顔を、妻として見るのは最後になる。

 そう思ったら、胸の奥が遅れて痛んだ。

「蓮司さん」

「何だ」

「昨日の質問、覚えていますか」

 蓮司の表情が変わった。

「ああ」

「答えは出ましたか?」

 少しの沈黙。

 しかし今度は、昨夜より早く返事があった。

「俺は、この結婚に不満はない」

 澪は笑いそうになった。

 不満はない。

 幸せだったかと聞いた答えが、それなのだ。

 あまりにも蓮司らしくて、かえって腹も立たなかった。

「そうですか」

「何だ、その言い方は」

「いいえ。蓮司さんらしいなと思っただけです」

「澪」

「大丈夫です。もう答えはいただきました」

 蓮司は眉を寄せた。

「昨日から妙だぞ。母に何か言われたから感情的になっているなら、今日改めて――」

「お義母様のせいにしないでください」

 澪は初めて少し強い口調で遮った。

 蓮司が黙る。

「昨日のことは、きっかけにはなりました。でも、お義母様が何も言わなかったとしても、私はいつか同じことを考えたと思います」

「何をだ」

「私たち、本当に夫婦だったのかなって」

 蓮司の顔が固くなる。

「今さら何を言っている」

「そうですね。今さらです。でも、今さらだから考えないままにしていいわけでもないでしょう」

 蓮司はテーブルへ手をついた。

「何が不満なんだ」

「そう聞かれると、たくさんありました。でも、たぶん一番つらかったのは、不満を言ってもいい関係だと私が思えなかったことです」

「意味が分からない」

「分からないんでしょうね。私も今まで説明しませんでしたから」

 澪は苦く笑った。

「あなたは私に暴力を振るったこともないし、浮気をしたこともない。生活にも困らせなかった。必要なものは何でも買えるようにしてくれたし、御堂家の人たちに何を言われても、私を追い出そうとはしなかった」

「なら――」

「でも、それだけで幸せになれるとは限らないんです」

 蓮司の口が止まった。

 彼にとって、それは理解しにくい言葉なのかもしれない。

 仕事なら、問題があれば原因を突き止め、条件を改善すればいい。

 けれど、人間の心は条件表では整理できない。

「私はずっと、あなたに必要とされたいと思っていました。妻としてじゃなくて、私自身を」

「君は妻だ。それで十分だろう」

「それが、十分じゃなかったんです」

 澪の声が少し震えた。

 自分で言って、ようやく認めた気がした。

「私、欲張りだったみたいです。帰る家を守るだけじゃなくて、帰りたい相手になりたかった。妻だから隣にいるんじゃなくて、私だから隣にいてほしかったんです」

 蓮司が何か言いかけた。

 しかし言葉にならない。

 澪はそれを責める気にはならなかった。

 この人は、こういう男なのだ。

 そして、自分はそんな男を好きになった。

 だから苦しかった。

「蓮司さん」

 澪はテーブルの上の紙を表へ返した。

「離婚してください」

 蓮司の目が、紙の文字に落ちた。

 その瞬間、彼の表情から初めて余裕が消えた。

「……何だ、これは」

「見れば分かるでしょう」

「冗談を言っているのか」

「こんな冗談は言いません」

「昨日の今日だぞ」

「昨日決めたわけではありません」

「では、いつからだ」

 蓮司の声が低くなる。

 澪は少し迷った。

「考え始めたのは、もっと前です」

「なぜ言わなかった」

「言えば止めてくれましたか?」

「当然だろう」

「では、どう止めるんですか」

 蓮司は答えに詰まった。

「お金を増やしますか。旅行へ行きますか。お義母様に私を悪く言わないよう話しますか。それとも、週に一度食事をする予定を入れますか」

「澪」

「私は、それが悪いと言っているんじゃありません。ただ、今のあなたならきっとそうやって解決しようとする。でも私が欲しいのは、問題を処理してもらうことではないんです」

 澪は結婚指輪を離婚届の横へ置いた。

 小さな金属音が、静かな部屋に響いた。

「もう、疲れました」

 ようやく本音が出た。

 蓮司の顔が強張る。

「私、あなたを嫌いになりたくないんです」

「だったら離婚する必要はないだろう」

「逆です。嫌いになる前に離れたいんです」

 澪はまっすぐ夫を見た。

「私はまだ、あなたが好きです」

 蓮司の目がわずかに見開かれた。

 この人は、本当に知らなかったのかもしれない。

 三年間一緒にいて。

 同じ家に暮らして。

 毎日同じ食卓につきながら。

 澪が自分を愛していることすら、確信を持てずにいたのかもしれない。

「だから、これ以上は無理なんです」

「好きなら、なぜ別れる」

「好きだから何でも耐えられるわけじゃありません」

 澪は静かに言った。

「好きな人のそばにいるのに、自分がどんどん小さくなっていくのは、思っていたより苦しかったです」

 蓮司はしばらく黙っていた。

 やがて、離婚届を手に取る。

 書かれた内容を確認し、澪の署名のところで指が止まった。

「本気なんだな」

「はい」

「財産分与については?」

「必要ありません」

「何を言っている。三年間の婚姻期間があるんだ。法律上の権利まで放棄する必要はない」

「いりません」

「感情で決めるな」

「感情で決めていません」

「では、どうやって生活する」

 その質問に、澪は少しだけ笑った。

「何とかします」

「何とかするで済む話じゃない。君は三年間働いていないだろう」

 澪は一瞬、返事を止めた。

 やはり、そう思っている。

 無理もない。

 澪自身がそう見えるようにしてきた。

「心配してくださるんですね」

「当たり前だ」

「なら、少しだけ安心しました」

「澪、話を逸らすな」

「大丈夫です。生活に困ることはありません」

「どこに行くつもりだ」

「それは言えません」

「なぜだ」

「追いかけてきてほしくないからです」

 蓮司の顔に苛立ちが浮かんだ。

「勝手に一人で決めて、勝手に出ていくつもりか」

「はい」

「それを夫婦とは言わない」

 その言葉に、澪は静かに笑った。

「だから、終わらせたいんです」

 蓮司は言葉を失った。

 澪は椅子から立ち上がった。

 玄関の近くには旅行鞄が置いてある。

 それを見て、ようやく蓮司は澪が今すぐ出ていくつもりだと理解したらしい。

「待て」

 澪が鞄へ手を伸ばすと、蓮司が腕を掴んだ。

 強くはない。

 けれど、初めて引き止められた。

 澪はその手を見た。

「離してください」

「行くな」

 その一言に、心が大きく揺れた。

 昨日、聞きたかった。

 もっと前に聞きたかった。

 何度も、何度も。

 けれど、今はもう遅い。

「蓮司さん」

「何だ」

「どうして行ってほしくないんですか」

 蓮司は答えなかった。

 澪は待った。

「妻だからですか?」

 また沈黙。

「御堂家の体面が悪いからですか?」

「違う」

「では、どうして?」

 蓮司は苦しそうに眉を寄せた。

 しかし、言葉は出てこなかった。

 澪はその手をそっと外した。

「その答えが出た時に、教えてください」

「澪」

「ただ、その頃には私はもう、あなたの妻ではないと思います」

 玄関へ向かう。

 靴を履き、扉へ手を掛けたところで、背後から低い声がした。

「いつ戻る」

 澪は振り返った。

 蓮司は離婚届を持ったまま立っている。

 その表情には、まだどこか現実を受け入れ切れていないものがあった。

「戻りません」

「数日頭を冷やせば――」

「蓮司さん」

 澪は遮った。

「私は家出するんじゃありません」

 その言葉だけは、はっきり伝えたかった。

「あなたの妻を辞めるんです」

 扉を開ける。

 朝の冷たい空気が入り込んできた。

 澪は一度だけ、三年間暮らした家を振り返った。

「三年間、本当にありがとうございました」

 蓮司は何も言わなかった。

 澪は外へ出た。

 扉が閉じる。

 その瞬間、不思議なほど足が軽くなった。

 泣くだろうと思っていた。

 けれど涙は出なかった。

 門の外には、一台の黒い車が待っていた。

 運転席から降りてきた男は澪を見つけると、後部座席のドアを開けた。

「お待ちしておりました、澪さん」

 御堂家の人間なら誰も見たことのない男だった。

 澪は小さく頷いた。

「神崎さん、朝早くからごめんなさい」

「三年待たされましたから、この程度は待ったうちに入りません」

「嫌味ですか?」

「半分は」

 神崎征司は珍しく少しだけ笑った。

「残り半分は、ようやく帰ってきてくださったことへの安堵です」

 澪は車へ乗り込む前に、もう一度御堂邸を見上げた。

 あの家で過ごした三年間を、後悔するつもりはない。

 愛したことも。

 待ったことも。

 傷ついたことも。

 全部、自分で選んだ。

「行きましょう」

「どちらへ?」

 澪は一瞬だけ考え、それから答えた。

「まずはアトリエへ。三年も休んだんだから、仕事が山ほど残っているでしょう?」

 神崎は少し驚いた後、困ったように笑った。

「復帰初日から働くつもりですか」

「働きます。もう誰かの帰りを待つ必要もありませんから」

 車のドアが閉まる。

 やがて黒い車は静かに走り出し、御堂邸から遠ざかっていった。

 同じ頃。

 誰もいなくなったダイニングで、蓮司はまだ立ち尽くしていた。

 テーブルの上には、冷めたコーヒーすらない。

 そこに残されているのは、離婚届と結婚指輪。

 そして、短い手紙だけだった。

 蓮司は便箋を開いた。

 三年間、毎朝必ずいたはずの女がいない。

 その事実を、彼はこの時初めて本当の意味で理解し始めていた。

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