FAZER LOGIN翌朝、澪が目を覚ました時、窓の外には薄い朝日が差し込み始めていた。
ほとんど眠れなかったはずなのに、不思議と頭は冴えていた。長い夜の間に何度も考え直し、何度も迷い、それでも最後には同じ結論へ戻ってきたからかもしれない。
隣の寝室は静かだった。
正確には、二人は結婚してしばらく経ってから寝室を分けている。蓮司の帰宅時間が不規則で、澪を起こさないためというのが始まりだった。最初は「仕事が落ち着いたら戻そう」と言っていたが、いつの間にかそのままになった。
澪はベッドから降りると、昨夜脱いだドレスを見た。
銀白色の布地は、椅子の背に静かに掛けてある。
三周年のために作った一着だった。
蓮司に褒めてもらえたら嬉しいと思っていた。
けれど、結局彼は一度もドレスについて何も言わなかった。
「それも、もういいか」
口にした自分の声は、思っていたより穏やかだった。
澪はシャワーを浴び、簡単に髪を整えると、白いブラウスと黒のパンツに着替えた。結婚前から持っている服で、御堂家の人間から見ればずいぶん地味に映るだろう。
けれど今は、このくらいでちょうどいい。
鏡の前で立ち止まり、左手を見る。
薬指は空いている。
そこに指輪がないだけで、知らない人の手のように見えた。
昨夜外した指輪は、小さなケースに収めてある。
澪はそれを旅行鞄の中へ入れかけ、やめた。
持っていくべきではない。
これは自分のものではない。
三年前、御堂家の嫁として与えられたものだ。
澪はケースを持ったまま、リビングへ向かった。
まだ家政婦たちが来る前の時間で、家の中は驚くほど静かだった。
普段ならこの時間、澪はキッチンに立っている。
蓮司の朝食を作り、コーヒー豆を挽き、新聞をテーブルへ置く。出勤時間に合わせてシャツやネクタイを確認し、天気が悪ければ傘を玄関へ出しておく。
誰かに命じられたわけではない。
自分がしたかったからしてきた。
それを今さら「尽くしてきた」と数えるつもりはなかったが、今日初めて何もしない朝を迎えると、自分の日常のほとんどが蓮司を中心に回っていたことがよく分かった。
澪はダイニングテーブルへ離婚届を置いた。
自分の署名は昨夜すでに済ませてある。
その横に、結婚指輪。
さらに、御堂家から渡されていたクレジットカードと家族用カード、家の鍵、使用していた車のキーも並べた。
最後に短い便箋を一枚置く。
文章は何度も書き直した。
恨み言を書くのは違うと思った。
だから、結局残したのは数行だけだった。
――三年間、ありがとうございました。
――あなたの妻でいられて、私は幸せでした。
――これ以上、お互いが嫌いになる前に終わらせたいと思います。
――離婚については、今後弁護士を通してください。
そこまで書いた後で、澪は一度ペンを止めた。
本当は、もっと書きたいことがあった。
昨日の質問に答えてほしかったこと。
寂しかったこと。
それでも愛していたこと。
朝、彼が「おはよう」と言うだけで嬉しかったこと。
仕事で疲れて帰ってきた蓮司が、澪の作ったスープを黙って全部飲み干した夜が好きだったこと。
海外出張の前、必ず「留守を頼む」と言われるのが密かに嬉しかったこと。
けれど、書けば書くほど戻りたくなる。
澪は便箋を折った。
このくらいでいい。
終わらせるための手紙に、思い出を詰め込みすぎてはいけない。
その時、廊下から足音がした。
澪は反射的に顔を上げた。
蓮司だった。
昨夜そのまま書斎で眠ったのか、シャツには皺があり、ネクタイもしていない。髪も普段ほど整っておらず、珍しく隙のある姿だった。
「早いな」
「おはようございます」
「おはよう」
蓮司はダイニングへ入りながら、テーブルを見た。
離婚届は伏せてある。
そのため、まだ何が置かれているのか分かっていない。
「コーヒーは?」
いつものように聞かれた。
澪は一瞬、返事に迷った。
「今日はありません」
蓮司が足を止める。
「豆が切れたのか?」
「いいえ」
「では?」
澪は答えなかった。
その代わり、夫の顔をしっかり見た。
この顔を、妻として見るのは最後になる。
そう思ったら、胸の奥が遅れて痛んだ。
「蓮司さん」
「何だ」
「昨日の質問、覚えていますか」
蓮司の表情が変わった。
「ああ」
「答えは出ましたか?」
少しの沈黙。
しかし今度は、昨夜より早く返事があった。
「俺は、この結婚に不満はない」
澪は笑いそうになった。
不満はない。
幸せだったかと聞いた答えが、それなのだ。
あまりにも蓮司らしくて、かえって腹も立たなかった。
「そうですか」
「何だ、その言い方は」
「いいえ。蓮司さんらしいなと思っただけです」
「澪」
「大丈夫です。もう答えはいただきました」
蓮司は眉を寄せた。
「昨日から妙だぞ。母に何か言われたから感情的になっているなら、今日改めて――」
「お義母様のせいにしないでください」
澪は初めて少し強い口調で遮った。
蓮司が黙る。
「昨日のことは、きっかけにはなりました。でも、お義母様が何も言わなかったとしても、私はいつか同じことを考えたと思います」
「何をだ」
「私たち、本当に夫婦だったのかなって」
蓮司の顔が固くなる。
「今さら何を言っている」
「そうですね。今さらです。でも、今さらだから考えないままにしていいわけでもないでしょう」
蓮司はテーブルへ手をついた。
「何が不満なんだ」
「そう聞かれると、たくさんありました。でも、たぶん一番つらかったのは、不満を言ってもいい関係だと私が思えなかったことです」
「意味が分からない」
「分からないんでしょうね。私も今まで説明しませんでしたから」
澪は苦く笑った。
「あなたは私に暴力を振るったこともないし、浮気をしたこともない。生活にも困らせなかった。必要なものは何でも買えるようにしてくれたし、御堂家の人たちに何を言われても、私を追い出そうとはしなかった」
「なら――」
「でも、それだけで幸せになれるとは限らないんです」
蓮司の口が止まった。
彼にとって、それは理解しにくい言葉なのかもしれない。
仕事なら、問題があれば原因を突き止め、条件を改善すればいい。
けれど、人間の心は条件表では整理できない。
「私はずっと、あなたに必要とされたいと思っていました。妻としてじゃなくて、私自身を」
「君は妻だ。それで十分だろう」
「それが、十分じゃなかったんです」
澪の声が少し震えた。
自分で言って、ようやく認めた気がした。
「私、欲張りだったみたいです。帰る家を守るだけじゃなくて、帰りたい相手になりたかった。妻だから隣にいるんじゃなくて、私だから隣にいてほしかったんです」
蓮司が何か言いかけた。
しかし言葉にならない。
澪はそれを責める気にはならなかった。
この人は、こういう男なのだ。
そして、自分はそんな男を好きになった。
だから苦しかった。
「蓮司さん」
澪はテーブルの上の紙を表へ返した。
「離婚してください」
蓮司の目が、紙の文字に落ちた。
その瞬間、彼の表情から初めて余裕が消えた。
「……何だ、これは」
「見れば分かるでしょう」
「冗談を言っているのか」
「こんな冗談は言いません」
「昨日の今日だぞ」
「昨日決めたわけではありません」
「では、いつからだ」
蓮司の声が低くなる。
澪は少し迷った。
「考え始めたのは、もっと前です」
「なぜ言わなかった」
「言えば止めてくれましたか?」
「当然だろう」
「では、どう止めるんですか」
蓮司は答えに詰まった。
「お金を増やしますか。旅行へ行きますか。お義母様に私を悪く言わないよう話しますか。それとも、週に一度食事をする予定を入れますか」
「澪」
「私は、それが悪いと言っているんじゃありません。ただ、今のあなたならきっとそうやって解決しようとする。でも私が欲しいのは、問題を処理してもらうことではないんです」
澪は結婚指輪を離婚届の横へ置いた。
小さな金属音が、静かな部屋に響いた。
「もう、疲れました」
ようやく本音が出た。
蓮司の顔が強張る。
「私、あなたを嫌いになりたくないんです」
「だったら離婚する必要はないだろう」
「逆です。嫌いになる前に離れたいんです」
澪はまっすぐ夫を見た。
「私はまだ、あなたが好きです」
蓮司の目がわずかに見開かれた。
この人は、本当に知らなかったのかもしれない。
三年間一緒にいて。
同じ家に暮らして。
毎日同じ食卓につきながら。
澪が自分を愛していることすら、確信を持てずにいたのかもしれない。
「だから、これ以上は無理なんです」
「好きなら、なぜ別れる」
「好きだから何でも耐えられるわけじゃありません」
澪は静かに言った。
「好きな人のそばにいるのに、自分がどんどん小さくなっていくのは、思っていたより苦しかったです」
蓮司はしばらく黙っていた。
やがて、離婚届を手に取る。
書かれた内容を確認し、澪の署名のところで指が止まった。
「本気なんだな」
「はい」
「財産分与については?」
「必要ありません」
「何を言っている。三年間の婚姻期間があるんだ。法律上の権利まで放棄する必要はない」
「いりません」
「感情で決めるな」
「感情で決めていません」
「では、どうやって生活する」
その質問に、澪は少しだけ笑った。
「何とかします」
「何とかするで済む話じゃない。君は三年間働いていないだろう」
澪は一瞬、返事を止めた。
やはり、そう思っている。
無理もない。
澪自身がそう見えるようにしてきた。
「心配してくださるんですね」
「当たり前だ」
「なら、少しだけ安心しました」
「澪、話を逸らすな」
「大丈夫です。生活に困ることはありません」
「どこに行くつもりだ」
「それは言えません」
「なぜだ」
「追いかけてきてほしくないからです」
蓮司の顔に苛立ちが浮かんだ。
「勝手に一人で決めて、勝手に出ていくつもりか」
「はい」
「それを夫婦とは言わない」
その言葉に、澪は静かに笑った。
「だから、終わらせたいんです」
蓮司は言葉を失った。
澪は椅子から立ち上がった。
玄関の近くには旅行鞄が置いてある。
それを見て、ようやく蓮司は澪が今すぐ出ていくつもりだと理解したらしい。
「待て」
澪が鞄へ手を伸ばすと、蓮司が腕を掴んだ。
強くはない。
けれど、初めて引き止められた。
澪はその手を見た。
「離してください」
「行くな」
その一言に、心が大きく揺れた。
昨日、聞きたかった。
もっと前に聞きたかった。
何度も、何度も。
けれど、今はもう遅い。
「蓮司さん」
「何だ」
「どうして行ってほしくないんですか」
蓮司は答えなかった。
澪は待った。
「妻だからですか?」
また沈黙。
「御堂家の体面が悪いからですか?」
「違う」
「では、どうして?」
蓮司は苦しそうに眉を寄せた。
しかし、言葉は出てこなかった。
澪はその手をそっと外した。
「その答えが出た時に、教えてください」
「澪」
「ただ、その頃には私はもう、あなたの妻ではないと思います」
玄関へ向かう。
靴を履き、扉へ手を掛けたところで、背後から低い声がした。
「いつ戻る」
澪は振り返った。
蓮司は離婚届を持ったまま立っている。
その表情には、まだどこか現実を受け入れ切れていないものがあった。
「戻りません」
「数日頭を冷やせば――」
「蓮司さん」
澪は遮った。
「私は家出するんじゃありません」
その言葉だけは、はっきり伝えたかった。
「あなたの妻を辞めるんです」
扉を開ける。
朝の冷たい空気が入り込んできた。
澪は一度だけ、三年間暮らした家を振り返った。
「三年間、本当にありがとうございました」
蓮司は何も言わなかった。
澪は外へ出た。
扉が閉じる。
その瞬間、不思議なほど足が軽くなった。
泣くだろうと思っていた。
けれど涙は出なかった。
門の外には、一台の黒い車が待っていた。
運転席から降りてきた男は澪を見つけると、後部座席のドアを開けた。
「お待ちしておりました、澪さん」
御堂家の人間なら誰も見たことのない男だった。
澪は小さく頷いた。
「神崎さん、朝早くからごめんなさい」
「三年待たされましたから、この程度は待ったうちに入りません」
「嫌味ですか?」
「半分は」
神崎征司は珍しく少しだけ笑った。
「残り半分は、ようやく帰ってきてくださったことへの安堵です」
澪は車へ乗り込む前に、もう一度御堂邸を見上げた。
あの家で過ごした三年間を、後悔するつもりはない。
愛したことも。
待ったことも。
傷ついたことも。
全部、自分で選んだ。
「行きましょう」
「どちらへ?」
澪は一瞬だけ考え、それから答えた。
「まずはアトリエへ。三年も休んだんだから、仕事が山ほど残っているでしょう?」
神崎は少し驚いた後、困ったように笑った。
「復帰初日から働くつもりですか」
「働きます。もう誰かの帰りを待つ必要もありませんから」
車のドアが閉まる。
やがて黒い車は静かに走り出し、御堂邸から遠ざかっていった。
同じ頃。
誰もいなくなったダイニングで、蓮司はまだ立ち尽くしていた。
テーブルの上には、冷めたコーヒーすらない。
そこに残されているのは、離婚届と結婚指輪。
そして、短い手紙だけだった。
蓮司は便箋を開いた。
三年間、毎朝必ずいたはずの女がいない。
その事実を、彼はこの時初めて本当の意味で理解し始めていた。
第26話 あなた、医者なの? 東都国際医療センターへ着いた頃には、撮影スタジオを出てから三十分近くが経っていた。 澪は車が正面玄関へ着く前に、久我から届いたメッセージをもう一度確認した。『意識清明。循環動態は安定。重篤な不整脈なし。採血結果待ちです。現時点では脱水、鉄欠乏性貧血、摂取不足が主因として考えやすいですが、念のため経過観察します』 少なくとも命に関わる状態ではない。 その一文を頭の中で確認して、ようやく肩の力が少し抜けた。「状態は?」 隣から蓮司が尋ねる。「今のところ安定しています。重い心臓の異常も見つかっていないそうです」「そうか」 蓮司も明らかに安堵した。 撮影中に倒れたのはアルカディア側が手配したモデルだが、御堂ライフスタイルとの共同事業で起きた事故でもある。会社として病院まで来ること自体は不自然ではない。 ただ、蓮司がわざわざ自分と同じ車へ乗る必要まではなかった。「ここからは私だけでも大丈夫ですよ」 澪が言うと、蓮司は窓の外を見たまま答えた。「会社として説明を聞いてから帰る」「本当に半分は仕事なんですね」「残り半分ももう言っただろ」「心配だから?」「ああ」 最近は、こちらが困るくらい素直だ。 澪はそれ以上何も言わず、車が停止するのを待った。 病院の自動扉を抜けた途端、独特の空気が身体にまとわりつく。 消毒薬の匂い。 低く抑えられた話し声。 遠くから聞こえるストレッチャーの車輪の音。 案内表示。 白衣。 ナース
第25話 倒れたモデル 翌朝八時、撮影スタジオにはすでに大勢のスタッフが集まっていた。 アルカディアと御堂ライフスタイルの共同ブランド、その新作を使った最初の大規模な広告撮影である。白い壁と高い天井に囲まれたスタジオには照明機材が並び、衣装ラックの間をスタイリストやメイク担当者が忙しく行き来していた。 澪は予定より三十分早く入り、昨夜手直しした衣装を一着ずつ確認していた。「右肩、もう一度上げてみてください」 昨日、着用時の違和感を訴えたモデルが腕を上げる。「どうですか?」「昨日より全然いいです。引っかかりません」「痛みは?」「ないです」「なら大丈夫そうですね」 澪は縫い目へ指を滑らせ、念のため本人が腕を前後へ動かすところまで確認した。 見た目だけ美しくても意味がない。 写真では一瞬しか残らなくても、その一瞬のために着る人間が苦痛を我慢する服を作りたいわけではなかった。「澪さん」 背後からスタッフに呼ばれる。「御堂ライフスタイルの皆さんがお見えです」「もう?」「九時予定だったんですが、社長も一緒です」 澪の手が止まった。「蓮司さんも?」「はい」 共同事業の最初の広告撮影なのだから、社長が視察に来てもおかしくはない。 おかしくはないのだが。「仕事です」 自分に言い聞かせるように呟くと、隣のスタイリストが不思議そうに振り向いた。「何がです?」「何でもありません」 数分後、蓮司は片桐と商品開発担当者を連れてスタジオへ入ってきた。 澪と目が合う。「おはよ
第24話 後悔の始まり 澪との協議を終えて社長室へ戻った蓮司は、机の上に置かれた書類を一枚も読めないまま、十分以上同じページを眺めていた。 普段なら考え事を抱えていても、仕事を始めれば頭は切り替わる。数字は数字として処理し、判断すべきことを先送りにはしない。それができるから、この年齢で御堂ライフスタイルを任されてきた。 しかし今日は駄目だった。『離婚は撤回しません』 澪の声が、何度も戻ってくる。 冷たく突き放されたわけではない。 むしろ逆だった。 自分が変わり始めたことを認めてくれた。嬉しいとも言ってくれた。別の女を好きになるのは嫌だとまで言った。 それでも、離婚する。 その事実が、蓮司にはまだうまく理解できなかった。 仕事なら、改善が認められたなら次の機会がある。 失敗の原因を修正し、相手の要求を満たせば、交渉を続けられる。 だが結婚は違うらしい。 今から正しいことをしたからといって、それまでの三年間が帳消しになるわけではない。 むしろ澪は、今の自分を見ているからこそ離婚したいと言った。 夫婦という形から一度離れなければ、この変化が本物なのか分からない。 理屈としては理解できる。 感情は、まったく納得していなかった。「社長」 片桐の声で、蓮司はようやく顔を上げた。「何だ」「同じページを十五分ほどご覧になっています」「見ているだけだ」「読んではいらっしゃらないようですが」「お前は監視員か」「秘書です。十五時の経営会議が五分後ですので、一応お知らせしました」 蓮司は腕時計を見る。 本当に五分前
第23話 離婚は撤回しません 三日後、二度目の正式な離婚協議が行われた。 場所は前回と同じ、御堂ライフスタイル本社の来客用会議室だった。 窓の外には秋晴れの東京が広がり、遠くのビルまでくっきり見える。澪は星野弁護士と並んで座りながら、テーブルの上に置かれた合意書案を一枚ずつ確認していた。 財産分与については、澪が請求しない意思を明確にした上で、将来的な争いが起こらないよう文言が整えられている。御堂家から贈られた宝飾品や衣類についても、所有権の確認が済んだ。婚姻中に共同名義で取得した不動産はなく、子供もいない。 法律上だけを見れば、二人の離婚は驚くほど簡単だった。 難しいのは、紙に書けない部分ばかりだ。「こちらについては、双方異議なしということでよろしいでしょうか」 星野が尋ねると、蓮司側の藤原弁護士が頷いた。「問題ありません」「御堂さんも?」「ああ」 蓮司は短く答えた。 今日は仕事の時と同じ濃い色のスーツを着ている。表情も落ち着いているが、机の端に置かれた離婚届には、まだ署名がない。 澪はそこを見ないようにしていた。 合意書がまとまれば、残るのは署名だけになる。 蓮司が書けば終わる。 書かなければ、さらに話し合うことになる。「では最後に、届出時期について確認しましょう」 藤原が言った。 やはりそこへ来る。「佐伯さん側は、合意書締結後できるだけ早く、というご希望で変更ありませんか」「ありません」 澪は迷わず答えた。 蓮司の指が僅かに動いた。「御堂さんは?」 藤原に尋ねられ、蓮司は数秒黙っていた。「その前に、一つだけ澪
第22話 愛されたかっただけ 御堂邸から私物を持ち帰った翌朝、澪はいつもより早く目を覚ました。 まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から見える空には夜の色が残っている。二度寝をするには中途半端な時刻だったが、頭だけは妙に冴えていた。 昨夜の会話が、何度も浮かんでくる。『君は、どんな人なんだ』 三年間、欲しかった問いだった。 だから嬉しかった。 同じくらい、腹も立った。 欲しかった言葉は、欲しかった時に届かなければ、それだけで傷になることがある。けれど、遅れて届いたからといって価値がなくなるわけでもない。 そこが厄介だった。 澪はベッドから出ると、まだ冷たい床を踏んでキッチンへ向かった。自分一人のために湯を沸かし、コーヒー豆を挽く。結婚中は蓮司の体調に合わせて豆を変えていたが、今は自分の好きな酸味のあるものを選んでいる。 カップへ湯を注ぎながら、ふと笑ってしまった。「私、これが好きだったんだ」 誰かに合わせる必要がなくなってから、ようやく自分の好みを思い出すことが増えた。 コーヒーは少し酸味がある方が好き。 朝はパンより米。 休日には予定を詰めたくない。 高級なレストランより、小さくて静かな店の方が落ち着く。 雨の日は嫌いではない。 花なら薔薇より白い小花が好き。 そんな小さなことを、蓮司はほとんど知らない。 だが同時に、澪自身も結婚生活の中でそれをほとんど口にしてこなかった。 蓮司が聞かなかった。 澪も言わなかった。 その結果、「御堂澪」という妻だけが出来上がり、その中にいた佐伯澪は少しずつ見えなくなった。 スマートフォンが振動した。 神崎から
第21話 夫婦だったのに知らないこと 悠真と昼食を終えた澪がアルカディア本社へ戻ったのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。 午前中を休みにしたとはいえ、午後からは共同ブランドの試作品確認と海外チームとのオンライン会議がある。エレベーターの中で髪をまとめ直し、頭を仕事へ切り替えようとしていたところへ、スマートフォンが震えた。 星野弁護士からだった。『御堂氏側より、前回協議事項について修正版が届きました。財産分与請求を行わない旨についても、後日の争いを避けるため合意書へ明記する方向で問題ありません。ただし、御堂氏本人から一度、婚姻中の私物について確認したいとの申し出があります。代理人を介した方がよろしければ、そのように対応します』 澪は画面を見ながら、少し考えた。 御堂邸には、まだ自分の物が残っている。 結婚後に買った高価な衣服や宝飾品については返却するつもりだったし、すでに一覧も作ってある。ただ、その中には自分が持ち込んだ本や、小さな裁縫道具、母の遺品なども混じっていた。 すべて家政婦にまとめてもらうこともできる。 その方が楽だ。 けれど、三年間暮らした家から自分の物を他人に選別してもらうことに、少し抵抗もあった。『私物については、私が一度確認に行きます。御堂さんが不在の時間でも構いません』 送信してからエレベーターを降りる。 すると数分もしないうちに、星野から返事が届いた。『御堂氏から「自分も立ち会いたい。ただし佐伯さんが嫌なら退席する」とのことです』 澪は思わず立ち止まった。 以前の蓮司なら、立ち会うのが当然だと言った気がする。 嫌なら退席する。 最近の彼は、こういう細かな部分まで少しずつ変わっている。 それが嬉しいのか、面倒なのか、自分でももう分からない。『構いません。明日の十







